20221030

僕にとって「歌」とは5

前回は学生時代の歌への思いを綴りました。
ここからは、いよいよ音楽活動を始め、今日に至るまでの軌跡を辿ろうと思います。
高校時代、好きに歌ってた頃から、大学生になり、友人がライブ活動をし出したことをきっかけに、そのツテで紹介してもらったライブハウスで僕も歌うことになります。音楽活動の始まりです。
当時は5曲くらいしかオリジナルで、しかも人前で、ライブで歌えるものがなかったし、好き勝手やっていた時とは大きく違い、お客さんの目があり、そして反応がある。ライブだからお金もかかっている。
そんな中始まったライブ。元々喋るのも得意じゃないのため、MCはボロボロ。なので曲をありったけ詰めて、極力フリートークはしないようにしました。しても曲紹介くらい。まあ言ってもそれもグダグダでしたが。
そしてライブを月1でやるようになり、曲もどんどん増やしていくようになりました。
歌うことから、歌を「披露」するようになり、自分だけが楽しいだけの時間から、楽しいを「共有」することを目指します。
最初はいっぱいいっぱいでした。ギターを弾いて歌うということが非常に大変でした。しかもライブとなればお客さんがいて、その方達に聴いてもらえねばなりません。
今思えばまだまだ取り組みが甘かったな、と感じています。(練習時間とか、構成とか。)
きっとライブというものがどんなものなのかわかるために自分が聴く側として行くべきでした。

見様見真似でもなく、そこも完全オリジナルで行こうとした結果。
何にもハマっていなかった僕のライブはきっと見られたものではありません。当時のチケット代もそこまで安くはなく、見ていただいていた方にはどんなふうに思われていただろう、と思うと体が震えます。
でもきっと、同時に僕ももがいていたんだろうなと。
伝えたくて、伝わらなくて、技術も、知識も、経験も追いつかない。歯が立たない。でも確かに僕を聴きにくる人がいて、ただお金を払って貰ってるわけじゃない。そこにある確かなライブ。そこに立っていた僕。
今でも忘れません。学生ながら、友人とユニットを組み、月1でワンマンライブを組み、阿佐ヶ谷の「Oil city」というところで歌ったこと。
ワンマンは基本2時間、カバーもオリジナルもやりました。15曲から20曲ほどやりました。とにかく一つでも何か届けたくて必死に歌ったこと。ライブをしている時の本気さは、今も変わっていません。自分が作った曲を、ただ歌って自分が満足するのではなく、どうにかして伝えようと必死になっていたこと。
また僕にとって「歌」というものが次第に変わります。